姫路生まれの武将「黒田官兵衛」
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戦国時代、数多の武将が天下統一を目指してしのぎを削る中で、その知略と胆力をもって主君を支え、歴史の大きな転換点において決定的な役割を果たした人物がいます。
それが黒田官兵衛孝高(くろだ かんべえ よしたか)です。
今回は姫路生まれの武将、黒田官兵衛について紹介していきたいと思います。
播磨の小大名から織田信長との出会いまで
黒田官兵衛は、天文15年(1546年)、姫路に生まれます。
父は小寺政職(こでら まさもと)の家臣である黒田職隆(もとたか)で、官兵衛もまた小寺家に仕える武士の家に育ちました。
幼名を万吉といい、のちに孝高と名乗ります。
幼少の頃から学問に励み、特に兵法や天文学、儒学、茶道など幅広い分野に深い知識と教養を身につけていたと伝えられます。その才覚は早くから小寺政職の目に留まり、やがて小寺家の家老として、外交や軍事面で重要な役割を担うようになります。
当時の播磨国は、西に毛利氏、東に織田氏という二大勢力に挟まれ、常に厳しい選択を迫られる状況にありました。
官兵衛は、将来を見据え、勢いを増す織田信長に味方すべきだと主君・小寺政職に進言します。
そして天正3年(1575年)、官兵衛は自ら信長のもとへ赴き、面会を果たします。
この時、信長は官兵衛の才覚と見識に深く感銘を受けたと言われています。
これを機に、小寺家は織田家に臣従することとなります。
豊臣秀吉の軍師としての活躍
信長に仕えることになった官兵衛は、中国攻めを任された羽柴秀吉の与力(つけがた)として配属されます。
ここから、秀吉の軍師としての官兵衛の輝かしい活躍が始まります。
主な戦の功績には次のようなものがあります。
- 鳥取城の兵糧攻め
- 備中高松城の水攻め
- 中国大返しと山崎の戦い
- 九州征伐
黒田官兵衛は、秀吉とともに戦の才覚を発揮していきます。
本能寺の変で信長が亡くなったときには、交戦中の毛利輝元と和睦結び、明智光秀を打つべきと進言し、実際に中国大返しを成功させ、豊臣秀吉の天下統一に貢献しました。
その後も、九州征伐などを行い、豊前国(現在の福岡県東部、大分県北西部)の国主になりました。
しかし、地域が平定されていくうちに、主君である秀吉と対立していくことになります。
天下統一を成し遂げた秀吉は、その権力を磐石なものとする一方で、家臣団に対する猜疑心を抱くようになります。
特に、秀吉から「次に天下を取るのは官兵衛か」とまで言われた官兵衛の才覚は、秀吉にとって脅威となり始めていました。
文禄元年(1592年)の文禄の役では、朝鮮出兵において兵站奉行として活躍しますが、秀吉との間には溝が深まることになります。
この事態を重くみた官兵衛は家督を嫡男の長政に譲り、自らは如水(じょすい)と号して隠居します。
秀吉死後の官兵衛
秀吉が慶長3年(1598年)に死去すると、天下は徳川家康と石田三成による東西の争乱へと向かいます。
関ヶ原の戦いが勃発すると、官兵衛は隠居の身でありながら、九州で独自の軍を率いて挙兵します。
これは、天下を再び武力によって統一しようとする「もう一つの天下取り」の野望であったと言われています。
しかし、関ヶ原の戦いが予想以上に早く決着したため、官兵衛の九州統一の野望は潰えることになります。
まとめ
今回は姫路生まれの武将黒田官兵衛について紹介しました。
慶長9年(1604年)、59歳で京都で生涯を閉じた官兵衛は、信長と秀吉という二人の天下人を支え、時にはその天下すらも狙った、まさに戦国乱世を体現する人物でした。
姫路には官兵衛のゆかりの場所がありますので、興味を持たれた方は、ぜひ一度訪れてみてください。
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河野 晃Akira Kouno
地元姫路の魅力をお伝えしたいと思っています。
また、法律相談についても地元の皆様にとって頼れる弁護士としてお気軽に相談して頂ける存在となれるよう、親身になって対応させて頂きます。
- 所属団体
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- 兵庫県弁護士会(資格登録番号43591)
- 経歴
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- 淳心学院高等部 卒業
- 東京都立大学 卒業
- 学習院大学法科大学院法務研究科 修了